- FACTIVE MES( 5):●分科会 人権 教育 女性 01 95/12/10 -
107/110 PFG00017 半月城 RE:「日韓条約」こそが重要です
( 5) 95/12/10 11:57 104へのコメント 金剛学園の立場
画竜点睛さんが指摘された、定住韓国人と朝鮮人の法的地位の差につい
ては後日、慰安婦の書き込み(FWORLDC,MES12,#1089,90,92)が一段落したら書
くことにして、今回は次の指摘にコメントしたいと思います。
>これまた未確認ですから事実誤認なら訂正しますが、大阪の金剛学園(いわ
>ゆる韓国系)は、各種学校ではないはずです。つまり、総聯系の民族学校と
>は扱いが違っています。
>こうした実態は、すべて「日韓条約」がもたらしたものです。
確かに、大阪の金剛学園(韓国系)は文部省認可校で総連系の民族学校
とは扱いが違います。さらに言えば、同じ韓国系の東京韓国学園(各種学校)
とも扱いが違います。
この違いを私は「日韓条約」に基因するとは思いません。この違いは総
連自身の希望によるものと私は理解しています。金剛学園のように文部省認可
校になるためには学校教育法の厳格な規定に適合しなければなりません。
これを避けるために朝鮮大学校のみならず、気象大学校や海上保安大学
校、防衛大学校など「大学」でなく「大学校」と名のつく学校は「各種学校」
の地位に甘んじています。アメリカンスクールや朝鮮中級・高級学校が文部省
のカリキュラムを守る教育を希望するとはとうてい考えられません。
なお、私は韓国・朝鮮人学校について1年前にPCVANのフォーラム、
アリラン(現在、閉鎖中)に書きましたので参考のために一部修正してここの
会議室に転載します。
PFG00017 半月城
108/110 PFG00017 半月城 在日韓国・朝鮮人学校(1)、(転載)
( 5) 95/12/10 11:58
PCVANの J ARIRANG(現在、閉鎖中)から一部修正して転載します。
#2662/2663 マダン(広場)
★タイトル (SPM07550) 94/12/11 17:21 ( 64)
外国人と指紋(20)、学校教育 半月城
★内容
祥司Sさんが、MSG#2639などで学校教育を書いていましたが
これに少し補足したいとおもいます。
在日韓国人の学校は次のようなものがあります。
1.文部省認可校 (学校教育法第1条該当校)
大阪建国学校 幼・小・中・高 679名(1951年認可)
大阪金剛学校 小・中・高 257名(1985年認可)
2.都道府県認可校 (学校教育法第83条該当の各種学校)
東京韓国学校 小・中・高 721名
京都韓国学校 中・高 168名
3.自主運営補習校 (定時制)
名古屋韓国学院 13クラス 276名
神戸韓国学院 4クラス 158名
兵庫韓国学院 3クラス 57名
尼崎韓国学院 4班 116名
コリアアカデミー 3班 34名
一方、朝総連系の学校はほとんど各種学校認可校と思われますが、その数
は
初級学校 85校 9、809名
中級学校 56校 5、201名
高級学校 11校 4、552名
大学校 1校 1、000名
となっています。(閔寛植著、在日韓国人の現状と未来、白帝社より)
上記の人数は1988年現在の数字ですが、その後多くの学校では生徒数
が減少しています。なかには、横須賀初級学校のように昨年閉校になったところも
あります。ただ、東京韓国学校は例外で、韓国企業の日本駐在員の増加で生徒数は
どんどん増えています。また、朝鮮大学校も特殊事情で増えています。というのは、
大学進学率が年々上昇しているのと、朝鮮高級学校を卒業しても日本の多くの大学
は入試を受けさせてくれないため、朝鮮高級学校卒業の進学希望者は勢い朝鮮大学
へ進むことになります。
なお、日本の大学はこうした各種学校卒業生を入学させようと思えばもち
ろんできます。入学資格は法的に決められていますが、その中に大学認定条項があ
り、それによれば「その他、大学において、相当の年齢に達し高等学校卒業と同等
以上の学力があると認めた者」とあり、これを適用すれば入学は可能です。しかし、
この条項を適用しているのはごく少数の大学しかありません。まだ多くの大学が閉
鎖的です。特に、国立大学は固く門戸を閉ざしています。これには文部省の意向が
強く働いているようです。
文部省は今まで何回も書いてきたように伝統的に民族教育を抑圧してきま
したが、同省はその路線を、通達「朝鮮人のみを収容する教育施設の取扱について」
(1965.12.28)の中でこう継承しています。
1.朝鮮人学校については、・・・これを同法第一条の学校として認可す
べきではないこと。
2、朝鮮人としての民族性または国民性を函養することを目的とする朝鮮人学
校は、わが国の社会にとって、各種学校の地位を与える積極的意義を有する
ものとは認められないので、これを各種学校として認可すべきではないこと。
この通達に反して、多くの知事は朝鮮人学校を各種学校として認可を行っ
ているようです。
どうも文部省は国際感覚がズレているようです。日本は世界各国に84校
の日本人学校、136校の補習校(1990年)を持ち、それなりに卒業生の進学資格
や法的地位の問題を抱えているというのに、これではちょっと視野が狭いようです。
祥司Sさんの指摘、
「日本固有の島国的ともいえるような閉鎖的な漠然とした排他的イメージが
色濃く反映されていると考えられるのです」
はもっともだと思います。その上さらに、これに北朝鮮に対する敵視政策が重なっ
て、朝鮮人学校を目の敵にしているようにみえます。
半月城
109/110 PFG00017 半月城 在日韓国・朝鮮人学校(2)、(転載)
( 5) 95/12/10 11:59
PCVANの J ARIRANG(現在、閉鎖中)から一部修正して転載します。
#2670/2671 マダン(広場)
★タイトル (SPM07550) 94/12/17 17:20 ( 72)
外国人と指紋(21)、学校教育(2) 半月城
★内容
祥司Sさんのいくつかの疑問に答えたいと思います。
>ところで、大阪建国学校、大阪金剛学校、東京韓国学校、そして京都韓国学校の
>設置者はどうなっているでしょうか。
>設立名義はともかく、事実上は韓国の教育部ではないかと思うのですが、いかが
>でしょうか。
この4校の設立時期は、
大阪建国学校 1946年3月
京都韓国学校 1946年9月
大阪金剛学校 1947年5月
東京韓国学校 1954年4月
となっています。つまり、東京韓国学校以外は開校がいずれも韓国の国自体の建国
前です。このことから察せられるとおり、これらの学校は本国の支援や指導なしに
在日の篤志家により設立されました。この頃は解放まもない時期であり、解放前に
は禁止されていた朝鮮語や民族の歴史・文化を取り戻し、建国に貢献するために、
特に民族教育に情熱がそそがれ、急ごしらえの学校が雨後の竹の子のように設立さ
れた時代でした。「建国学校」という校名からもその意気が感じられると思います。
こうした気概の中で、設立された韓国系の学校は数十校、生徒数にして約7000
韓国系といっても建国学校(白頭学院)だけは当初は中立系でした。中立
を守るために、韓国の文教部長官の訪問が「国旗問題」で取りやめになったエピソ
ードがあったくらいです。すなわち、1970年代初期、長官訪問時に韓国国旗の
「太極旗」を掲揚するのを同校が拒否し、これに反発した長官が訪問計画を中止し
たのです。しかし、同校は次第に財政困難に陥り、1976年に韓国政府から支援
を受けた時からははっきりと韓国系になります。
他の3校に対して、韓国政府の指導は1961年文教部の教育調査団が来
日した後に始まります。この年の12月から韓国大使館の中に文教部の「奨学官」
室が置かれ、派遣教師が韓国学校へ配置され、本国流の韓国語や歴史が教えられま
した。そして、財政支援が強まるに従い、校長まで派遣されるようになりました。
>ところで、朝鮮学校について「問題」になるのは、要求が「教育問題」ではなく、
>「政治的問題」をからめているからではないでしょうか。
朝鮮学校と文部省との対立は、「日教組対文部省」の宿命の対決みたいに
歴史的に根が深く、絶えず政治問題が絡んでいました。
終戦直後の1945年10月に在日同胞の自治団体として、朝鮮人連盟
(朝連)が結成されました。この時の結成目的は政治的、思想的色彩を帯びない社
会事業団体的なものでした。しかし、日本共産党員の金天海が最高顧問に就いたこ
とから急速に国際共産主義運動へと性格を変えていきました。
こうした朝連の運営する学校は1948年現在、
初等学校 541校 56,210人
中学校 9校 2,330人
青年学校 36校 1,796人
に達しました。
かくいう私もこうした学校の一つである、朝連埼玉の川口初等学校に通っ
た一人でした。学校といっても児童数50-60名くらいの寺子屋に毛の生えた程
度でしたけれども。しかし、こうした学校はレッドパージを行うGHQや文部省に
とっては「目の上のたんこぶ」でした。そこで、GHQ・文部省はこれらの学校を
つぶしにかかります。
その経過をたどると、まず文部省は1948年1月に朝鮮人学校について
通達を出します。その中で、
1.朝鮮人学校の設置は知事の認可が必要である。
2.教科書・教科内容については(日本の)学校教育法の規定が適用される。
とし、民族教育を抑圧します。これに対しては猛烈な反発がありました。血気盛ん
(?)な「在日朝鮮民主青年同盟」(民青)を先鋒に反対運動を展開します。これ
にあわてたGHQは4月24日神戸地区に、最初にして最後の「非常事態宣言」を
布告し、軍事力を背景に1800名を検挙します。この時、一人の朝鮮人生徒が犠
牲になりました。これが「阪神教育事件」です。
この時、韓国系の民団の対応は興味を引くものでした。<民団は共通す
る「民族教育の弾圧」という問題意識から朝連と協調する姿勢を取り、事件に共闘
して検挙者まで出している>と、されています。(李瑜煥著 「在日韓国人60万」
洋々社 1971)。この共闘から、在日韓国・朝鮮人がこの事件にいかに危機感
を抱いていたかが窺えると思います。 続く
半月城
110/110 PFG00017 半月城 在日韓国・朝鮮人学校(3)、(転載)
( 5) 95/12/10 11:59
PCVANの J ARIRANG(現在、閉鎖中)から一部修正して転載します。
#2681/2684 マダン(広場)
★タイトル (SPM07550) 94/12/25 16:47 ( 78)
外国人と指紋(23)、学校教育(3) 半月城
★内容
さて、1949年に「阪神教育事件」が兵庫県知事の、朝鮮人学校閉鎖命
令をきっかけにして起こりましたが、この年は立て続けに重大事件が起きます。
9月8日、GHQはレッドパージの一環として、「朝連」・「民青」にも
「団体等規制令」により解散命令を出しました。軍事力を背景とした命令とあって、
これに対してはほとんど抵抗は無かったようです。この朝連の空白という絶好の機
会をとらえて、文部省は朝鮮人学校の閉鎖計画を練りあげました。この計画は10
月12日の閣議で正式決定されました。
そして、ついに10月19日および11月4日の二度に分けて朝鮮人学校
349校に対し閉鎖命令を通告しました。これには朝連と民団の区別はありません
でした。この措置に対して、旧朝連はアジュモニを先頭に「座り込み戦術」などで
体を張って激しく抵抗をしました。
また、反対運動の一方では、文部省が示した組織改編に応じ、11月14
日までに245校が改組の申請をしました。しかし、認められたのは大阪建国学校
ただ1校のみという厳しさでした。後日、京都東中学校と松山小学校の2校が追加
認可されました。私の通っていた川口朝連小学校もあえなく廃校になってしまい、
私は市内の日本の小学校へ転校を余儀なくされました。
この閉鎖命令および主要不動産の接収命令により民団系・旧朝連系を問わ
ず民族学校は共に大打撃をこうむりました。中でも、民団系の学校はこの措置によ
り壊滅的になりほとんど立ち直れませんでした。これに対し旧朝連系の学校はこの
危機をバネにその後少しずつ勢いを盛り返していきます。しかも校舎などを近代的
な設備に徐々に建て替え昔をしのぐ勢いで今日に至っています。
全く皮肉なものです。朝連系の学校をつぶすのが狙い(?)だったのに、
結果は旧朝連系の学校は以前よりもっと立派になり、とばっちりを受けた格好の民
団系の学校が見る影も無くなってしまったとはあまりにも意外な結末です。
朝連系の学校が立ち直った背景の一つには、接収財産の払い下げなどで旧
朝連系の教育関係者の粘り強い交渉に、各自治体がわりと好意的に応じたことも影
響していたようです。それと同時に、北の方からの援助が相当効果的であったこと
があげられます。そして何よりも、教育に対する熱意の差が、今日の民団と朝総連
の民族学校の現状の差となって歴然と表れているのではないかと思います。
ところで、転校した私はその後、転校先の小学校で課外授業として毎日2
時間くらいずつ民族教育を受けました。多くの都道府県で、民族学校が閉鎖になっ
た代わりに、こうした形で文部省公認の民族教育が行われたようです。公認とは言
っても、ただ教室などを借りるだけで、教員や教材のなどはもちろん自分持ちです。
このように、朝鮮人に対しても日本の教科書、教科内容を強制することに
こだわってきた文部省も、1952年のサンフランシスコ条約締結をきっかけに大
きな方針転換をします。この条約をきっかけに、「日本国籍」を自動的に失ったと
された在日朝鮮人に対し、日本の義務教育の適用を強制していた方針を改めました。
すなわち、日本人学校への就学については通知書などを出さずに、児童の親から申
請があれば許可する方針に変えました。つまり、在日朝鮮人はやっと教育面で「外
国人」として扱われるようになりました。
一方、解散させられた旧朝連は1951年1月に「在日朝鮮統一民主戦線」
に、旧民青は1950年7月に「祖国防衛委員会」に再建されました。この両団体
はさらに、1955年5月に「在日本朝鮮人総連合会」(朝総連、または総連)に
統一され現在に至っています。この朝総連は朝連にもまして教育問題には力を注ぎ
ます。
朝総連の結成の翌年には、朝鮮大学校を設立し、小学校から大学までの一
貫教育システムを完成させました。この朝鮮大学校に対し、革新系の美濃部東京都
知事は文部省の先の通達(1965.12.28)に反し、1967年8月各種学校として認
可しました。
これに怒った文部省はこの措置に対抗し、「外国人学校法案」を国会に上
程し、こうした学校を規制しようとしました。しかし、この法案は各方面の根強い
反対にあい、結局廃案となりました。
朝総連系の学校というといつもどうしてこうも政治問題化してしまうのか
その背景を少し考えてみました。まず、政府・文部省は基本的に
1.「北朝鮮」を認めない。場合によっては仮想敵国である。従って、その
公民の教育が日本で行われるのは好ましくない。
2.共産主義革命の闘士を育てる教育が「外国人学校」を「かくれみの」に
行われるのは困る。
3.中国侵略や南京虐殺などを否定したかっての文部省検定教科書の趣旨に
反する教育、すなわち反日教育が日本国内で行われるのを座視できない。
4.少数民族問題や外国人問題は根絶やしにしたい。
という考え方で行政を進めてきたのではないかと思います。この考え方の是非は別
にして、こうした考え方に立つ限り政治問題化は必然だと思います。
半月城
- FACTIVE MES( 5):●分科会 人権 教育 女性 01 95/12/17 -
115/115 PFG00017 半月城 RE:在日韓国・朝鮮人学校(3)、(転載)
( 5) 95/12/17 13:12 112へのコメント 外国人学校法
青ひょんさん、初めまして。どうも返事が遅くなりました。なにぶん
FWORLDCで慰安婦問題の書き込みに忙しかったもんでつい遅れました。
> 在日朝鮮人の「歴史」の多くの局面において、南北分断(民
>団、総連)の力作用により、例えば闘争が分裂したり、力を合わせるこ
>と叶わず、お互いに対する「消耗」的闘争が行われてきたのでは、、、
この青ひょんさんのご指摘はその通りだと思います。片や総連(在日朝
鮮人総連合会、朝総連)は共産主義を理想とする組織、片や民団(在日本大韓
民国居留民団)は自由主義が建前の団体、両者の考え方には自民党と共産党と
の差くらいの開きがあります。
しかも、それぞれの団体が冷戦中の韓国と北朝鮮双方の政権と密着し、
双方の攻撃、非難をしているのですから、両者が力を合わせて何かをするのは
稀です。なお、民団は昨年、在日本大韓民国民団と改称しました。
ところで両者の対立は、別にお互いにテロ攻撃をしたわけではないし、
高々へらず口を叩きあうくらいなので、こうした中傷合戦はたいしたことは無
いと私は思います。
そうした犬猿の仲の両者が阪神教育事件の時だけは、両者ともに「民族
学校閉鎖反対」を叫びました。この学校閉鎖は、文部省の教育方針に元来合う
はずもない民族学校を抹殺するのが目的でしたから、日本政府は、朝連系のみ
ならず「民団系学校もこれに準ずる」と閣議決定(1949.10.12)していました。
このように、レッドパージに端を発した朝連系学校閉鎖の火の粉が民団
系の学校にも降りかかっていたのですからとても「譲歩」どころの話ではなか
ったと思います。そのあたりのくわしい経過は私もよく把握していません。
もしかすると、文末の資料に何か載っているかも知れません(この本は
高価なので私にはちょっと手が届きません)。
一方、この種の「譲歩」は後の、外国人学校法案の時はありました。こ
の法案は1968年、美濃部都知事の朝鮮大学校認可に対抗して提出されまし
た。この外国人学校法に対し、民団は民族教育を守る立場から当初は同法案に
反対していましたが、反共主義優先の韓国大使館の説得により条件付き賛成に
その態度を変更しました。
その間の事情を、「韓国通信」の論説(1968.3.13)から引用します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
伝えられるところによれば、民団文教委員会で去る9日委員会を開き、
5時間あまりも論議をかわした結果、委員各自は反対の意向を表明し、民団と
し、当然反対運動を展開するべきだとの態度であったといわれる。
・・・・(その後、態度が変わったことについて)
同席した(韓国大使館の)崔奨学官の強要と、民族の良心との板挟みに
なった苦しい立場を理解しないでもないが、しかし、いくら国家公務員の要請
とはいえ、常識をはずれた決定はできない筈である。教育というものは民族永
遠の大計である。それが一個人の面子とか成績のために左右されたり、一政権
の利益のために犠牲にされるようなことは絶対許されるものではない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
反共は韓国の国是であり、この大義の前には民族教育のある程度の犠牲
はやむを得ないという考え方から、民団は組織として「譲歩」を行いました。
これに対し、血気盛んな傘下団体の韓青(在日韓国青年同盟)や韓学同(在日
韓国学生同盟)は「民族教育死守」を叫び反対運動を繰り広げました。
こうした努力や、各界各層の広範な反対の声に押され、この外国人学校
法案は幸いにも廃案になり今日に至っています。
今後、この法案は国際人権規約とのかねあいから、もう二度と国会には
出されないのではないかと予想されます。
資料紹介
「在日朝鮮人民族教育擁護闘争資料集」全2巻、明石書店出版。
副題「4。24阪神教育闘争を中心に」
第1巻(ISBN4ー7503ー0198ー1)の編者は金慶海氏。
第2巻(ISBN4ー7503ー0238ー4)の編者は内山一雄氏、趙博氏、
定価は各巻とも¥26、780円。
明石書店の出版図書目録(1994年、7月)から紹介文を以下に引用
します。
<1948年4月、神戸に非常事態宣言が発令され、神戸地区は占領軍
の直接統治下におかれた。在日朝鮮人の民族教育を守る闘いは、占領軍権力と
正面から衝突したのである。朝鮮人連盟・GHQ・兵庫県などの内部文書を通
して、当時の教育闘争の実体に多角的に迫る資料集。
第1集は、阪神を中心に民族学校擁護闘争に関する資料を収録。
第2集は大阪を中心に山口、岡山、京都などの地区の民族学校擁護闘争に関す
る資料を収録>(以下省略)
PFG00017 半月城
●分科会 戦争 平和 基地問題
096/097 PFG00017 半月城 RE:韓国忠清道での戦時動員聞取り調査
( 7) 95/10/06 19:15 095へのコメント 強制連行
> 最近考えるのですが、「強制連行」と言う言葉は変な言葉なんではない
>でしょうか。「連行」と言う言葉自体に「強制的」と言う意味が含まれてい
>ますので「強制的強制連行」といった意味になっています。
言われてみれば忘暮楼主人さんのおっしゃるとおりです。この言葉は私
の知る限りでは、朴慶植氏がその著書「朝鮮人強制連行」(未来社刊)で19
65年に使ったのが最初ではないかと思います。
この「強制連行」という語を他の言葉で置き換えるとしたら何が適当で
しょうか。
韓国では「徴用」が一般的ですが、徴用は日本ではちょっとニュアンス
が違ってしまいます。日本国内の徴用には、強制的な面はあっても「お国のた
めに」と消極的ながらも協力する姿勢があり、朝鮮人強制連行の響きとはほど
遠いと思います。
さりとて、単に「連行」では思想犯や犯罪者をしょっ引くみたいで語感
が合いません。このあたりを考え抜いて「強制連行」としたのではないでしょ
うか。また、この語はわりと適切であるためかすっかり定着した感があります。
さて強制連行ですが、朴慶植氏はその開始を「朝鮮人労働者募集要項」
発表の年の1939年としています。
同氏によればこの年内地で発布された「国民徴用令」にそって朝鮮総督
府、警察当局、職業紹介所、関係協和団体などの緊密な連携と綿密な計画のも
とに連行が実施されたとしています。そして「労働者募集取締規則」で
1、職場の変更の禁止。
2、協和事業団体への強制加入やその会員証の所持の義務
3、協和事業団体幹部、警察官、職業紹介所員への服従
・・・・
などといった強権的な拘束がなされていたとしています。
そして、多くは行き先も知らされずに連れて行かれたが、そこは言わず
と知れた炭坑・鉱山・トンネルといった3K職場でした。
さらに、強権発動は年々強まり、1940年には「朝鮮職業令」がださ
れ官斡旋度が強まり、同時に「労務者移動禁止令」や翌年の「国民労務手帳法」
などで朝鮮人労働者に対する拘束は強化されたとしています。
こうした下地の上に、1942年「鮮人内地移入斡旋要項」、俗に言う
「官斡旋」がだされ本格的な強制連行に走ったのは忘暮楼主人さんの実地調査
の具体例のとおりです。
さらに強権的な一般徴用令が1944年に朝鮮にも発動され、強制連行
もその過激度を強めるわけです。
このように、一口に強制連行といっても、戦争の深みと共にそのやり方
がどんどん変わってくるわけです。そこで、忘暮楼主人さんに質問したいので
すが、調査されたハラボジたちの渡日は何年だったのでしょうか? カンさん
とオさんは1942年以前と書かれていましたが、二人のクさん、クアンさん
や朴さんは何年だったのでしょうか?
それと、帰国はいつ頃どのようにされたのでしょうか? 最近、帰国船
「浮島丸」の爆破が映画化されたりして帰国にも関心があります。
それと勝手なお願いなのですが、書き込みの時に一行の文字数を70字
くらいで改行していただけないでしょうか。私のノートパソコンでは一行の行
数が長いと端が切れてしまいますので。以上よろしくお願いします。
半月城
半月城の連絡先は half-moon@muj.biglobe.ne.jp です。
103/103 PFG00017 半月城 RE:戦後の在日朝鮮人民圧迫は再生産されて
( 5) 95/12/03 17:22 092へのコメント 国籍と参政権
画竜点睛さん、久しぶりです。たしか、阪神教育事件の資料の件以来で
しょうか。私はここしばらく留守にしていましたのでコメントが遅れました。
>ただ、私は「国体」その他の国籍差別の現状は、「50年も昔の過ち」を
>主たる原因とする立場をとっていません。
私も同感です。定住韓国・朝鮮人に対する国籍差別のヤマ場は戦後何回
かあったと思います。 なかでも、私は最初のターニングポイントを1945年
12月の衆議院選挙法に置いています。この法律の付則にある暫定措置はこれ
まで旧植民地出身者の台湾、韓国・朝鮮人が持っていた参政権を停止するとい
うものでした。この暫定措置を皮切りに参議院選挙はもちろん地方自治選挙な
どでも定住韓国・朝鮮人を排除し、後日それが固定化されました。
この衆議院選挙法の2カ月前、10月の政府閣議では旧植民地出身者の参
政権を継続して認めることを正式決定していたのに、それを急に覆したのです
からこの暫定措置は大変な方向転換です。この政策の突然の変更は今まで謎と
され学者の研究テーマになっていました。つい最近、このいきさつが明るみに
出されました。
11月7日の共同通信ニュース速報によれば、京大人文科学研究所の水
野直樹助教授(朝鮮近代史)が国会図書館でこの経緯の関係資料を発掘しまし
た。
それによると、当時選挙制度の専門家とされた故清瀬一郎衆院議員名で
「(日本国籍を持つ旧植民地出身者に)参政権を与えれば天皇制廃絶を叫ぶ議
員が選出される恐れがある」と強い危機感を示す意見書がまとめられていたそ
うです。
この意見書は「参政権を認めれば最少十人ぐらいの当選者を得るのは容
易」とした上で「わが国は従来、民族の分裂はなく民族単位の選挙を行ったこ
とはない。思想問題と結合すれば、天皇制の廃絶を叫ぶ者は恐らく国籍を朝鮮
に有し、内地に住所を有する候補者であろう」と、天皇制が批判されるのを危
惧しています。
ここでも国体への参加資格問題と同様に天皇制が影響しています。天皇
の名の下に侵略戦争を行った日本の50年も昔の過ちが深く陰を落としていま
す。旧植民地出身者にとって天皇は特別な存在でした。天皇の名の下に多くの
人が辛酸をなめさせられたのは画竜点睛さんもよくご存じのことと思います。
昨今話題の日韓併合が天皇の名の下になされたのはいうに及ばず、日帝時
代の韓国・朝鮮人は「天皇の赤子(せきし)」とされ「皇国臣民の誓い」を強
要されたり、日本語や日本人式の姓名を強制されるなど、民族文化を抹殺する
度の過ぎた 「皇民化」政策は怨嗟の的でした。 この政策の根幹を成す天皇は言
うまでもなく日帝の「象徴」であったので抗日運動家の標的になり、その一環
として李奉昌義士が1932年桜田門外で天皇暗殺計画を決行したのでした。
こうした旧植民地出身者が抱く天皇に対する特別な感情に恐れをなし先
の清瀬議員の報告書が作成されたものと思われます。
次に私は2番目のターニングポイントを、旧植民地出身者の国籍に関す
る法務府の通達 (1952.4.19)においています。このたった一片の、矛盾の多い
局長通達で旧植民地出身者100万人を強制的に全て外国人にしてしまいまし
た。そうしておいて次には外国人という口実で、国民健康保険法、国民年金法
などでことごとく定住外国人を排除する民族差別を制度化し市民権を剥奪しま
した。このあたりは FACTIVE,MES6-#61に書いたとおりですのでここではこれ
以上ふれないことにします。
ところで、こうした制度的な差別に関しては定住韓国人に対してと、 朝
鮮人に対してとでその差はないと私は思います。 これは朝鮮人学校、韓国人学
校についてもいえるのではないかと思います。
たとえば1949年の阪神教育事件では両者ともに弾圧されました。そ
の後、 朝鮮人学校は壊滅状態からよみがえり以前にもまして陣容が立派になり
ましたが、 韓国人学校はほとんど立ち直れませんでした。 これは、両者の学校
関係者の熱意の差が決定的でしたが、 この時などは各地方の自治体は朝鮮人学
校に好意的であったくらいです。
また、美濃部都政は小平にある朝鮮大学校を、文部省の通達に逆らってま
で1967年に各種学校として認可しましたが、 これ一つをみても朝鮮人学校
が冷遇されているとは言えないと思います。
半月城